鉄血政策
北部ドイツにおいて最有力国家であったプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはドイツ最大の国家でありながら非ドイツ系住民を多数包含するオーストリア帝国を排除して自国中心にした(小ドイツ主義)、君主制のドイツによる統一を目指した。彼はいわゆる鉄血演説を行ってドイツ統一のために軍備拡張政策を追求することを宣言した。これを「鉄血政策(てっけつせいさく)」と呼ぶ。
ドイツとデンマークの国境地帯シュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方には、中世以来ドイツ人が入植していたが、1864年、デンマークと戦い勝利し、これを奪い取った(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。続いてビスマルクは1866年、その管理問題からオーストリアと戦い、勝利した(普墺戦争)。これによって、チェコ人やハンガリー人などを含む多民族国家オーストリアは、ドイツ統一から排除された。戦後、ドイツ連邦は崩壊。オーストリアはハンガリー人と妥協し、オーストリア=ハンガリー二重帝国となり、北部にはプロイセンを中心に22の領邦と3の自由市からなる北ドイツ連邦が成立した。
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ビスマルクは、プロイセン中心のドイツ統一に反対するカトリックの強いバイエルン(バヴァリア)など、南西ドイツ4領邦を新生ドイツに編入するため、宗教を超えた民族主義(日本ではドイツの場合に限ってしばしば「国民主義」という美辞が使われる)の利用を考えた。当時、スペインの王位継承問題に、同じく関心を持っていたフランスとの関係を悪化させ、エムス電報事件を機に、フランス皇帝ナポレオン3世と開戦、勝利を収めた(普仏戦争)が、民族主義(国民主義)が高まる中、プロイセン王を兼ねるヴィルヘルム1世は、プロイセンを尊重してドイツ統一を強く拒否した。